(この物語は一部の史実を基に作られた架空の作品です。実際の歴史とは異なりますのでご注意下さい。)
石川県の南加賀、柴山潟に繋がる動橋川。その上流をたどると深い森林に覆われた山道がある。
暫くその薄暗い一本道を進むと突如として開けた部落に至る。
山中温泉大土町。
住民がわずか一人の究極の限界集落だ。
遡る事、時は寿永2年(1183年)6月1日。
加賀の国篠原(現在の加賀市篠原町)において 、源義仲率いる源氏軍と平維盛(これもり)率いる平氏軍との壮絶な戦が繰り広げられた。
俗に言う篠原の戦いである。
その戦は、源氏軍5000騎に対して平氏軍40000騎余りと群勢としては平氏軍が有利に思えた。
しかし 前戦の倶利伽羅峠の戦いでの敗北の影響を受け、結果は源氏軍の圧勝で幕を閉じた。
平氏軍の主要武将はことごとく討ち取られ、残された兵士は山中に逃げまどったが執拗とも言える源氏軍の手にかかり、敢え無くその命を絶たねばならなかった。
その様なほぼ壊滅的な戦いの中、命絶え絶えに生き残った兵士達がいた。
世に言われる平家の落人である。
彼らは考えた末、複数にわかれて逃走する事にした。
一手は加賀平野を身を潜めながら進み、現在の黒瀬町あたりから大聖寺川沿いを登る事にした。
空腹に耐え忍び、罠を仕掛けて獲った小動物や川魚を喰らいながら前へ進み、どうにか上流域までたどり着く事が出来た。
しかし、ようやくたどり着いたその地には先住民が住んでいた。
住民は薄ら汚れた見たことも無い装束をまとった一団を見て、あるものは腰を抜かしながら逃げ出し、ある物は鍬を持って戦うそぶりを見せた。
既に周辺を制圧している源氏軍に通報されたら彼らの命は確実に終わりを遂げる。
そこで考えた兵士の頭は村民に村の主人を呼びつけさせた。
そして頭は主人に持っている武器を全て差し出し、村民に忠誠を誓ったのだ。
さらに彼らの生業でもあった都文化の華やかさを語り、住民の好奇心を刺激し始めた。
次第に興味を持ち始める村民。
頭は頃合いを見て畳み掛ける様にして提案した。
都文化の継承をかくまってもらう交換条件にできないかと。
かくして交渉は成立した。
兵士達は彼らに密かに保護される事になったのだ。
それから都人である平家の落人との共同生活が始まったのだった。
その後、平家の落人達の芸術的思考が村民に継承され、後の九谷焼、山中塗が発展する礎となるのであった。
他方の一群は動橋川を遡上した。
冬場、産卵場を求めて川を上る鮭のように彼らは源流域を目指した。
その間、人には会わなかった。
いや、全て隠密に行動し人に会う事を避けたのだ。
実は群勢の中には公卿、女子供もいた。
自尊心が強く、厳格な血を重んじるお公家様は自らの血統が混合される事を強く嫌ったのだ。
やがてその源流域に開けた盆地状の地形がある事を突き止めた彼らは零から生活の基盤を作りあげ始めた。
火を起こし、鉄を鍛え、鋸を作り、木を倒し、炭を作り、水を引き、稲を植えた。
そして遂に自分達の手で全てが完結できる地を創りあげた。
誰にも会わずひっそりと。確実に。
街の噂では30年前、まだ存命していた老婆は自らの名前を“麻呂”と語っていたと云う。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」
有名な平家物語の冒頭であるが、都から遠く離れた異郷の地で、ささやかではあるが繁栄した平家の落人達。
その文化は今でも脈々とと受け継がれているが、一方、深い山中に創られた小さな桃源郷が今、ひっそりと幕を閉じようとしている。
彼らの遺志は今、何を思うのだろうか?
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