大日山放浪記
いつか書き記さなければと思いながらずっと先延ばしにして来た事があります。
今でも僕の頭の中に鮮明に刻み込まれている記憶。
自戒の念を込めてあの日の事を基にして書いた短編です。
夜明け前〜真砂町
2013年3月30日 晴れ
漆黒の闇。
3時間位眠れたでしょうか。
上手く眠れませんでした。
僕の命が次の日もまだ存在しているのだろうかと思うと不安になりました。
寝不足のまま妻を起こさないようにそっと寝室を出て物音を立てないようにしながら身支度を整えます。
今回は持っている一通りの山道具の他に、十本爪アイゼン、ピッケルを加えました。
これは2012年5月12日に残雪期の白山単独登山に挑んだ時、必要と感じた道具です。
その時は軽アイゼンは持っていましたが、急登時において足先に爪をもたないそれは全くもって意味を持たない事を実感していました。
そして万一滑落した時に備えてピッケルは携行しなければいけないと思いました。
ちなみにこの日は結局、砂防新道の最終難関である黒ボコ岩直前の急登で足場が取れず、その結果登頂出来ずに引き返しています。
苦渋の決断で撤退を決めた時、そこから最後に見えた残雪の別山はとてもとても綺麗だった事を今でも覚えています。
戻ります。
準備を整え自宅を出ます。
街灯の光がぼんやりと光っているのが目につきました。
山中温泉の自宅から車で25分程、大聖寺川の上流に向けて走らせると山中温泉九谷町に到着します。
その頃、辺りは白々と明るくなり始めていました。
九谷を抜けてさらに20分位源流域ヘ向かうと山中温泉真砂(マナゴ)町に到着します。
九谷ではまだ10センチ程度しか無かった残雪も真砂に着く頃には所々50センチをゆうに超える箇所がありました。
道路は恐らくですが、解禁後の釣り人達の為に除雪したのだと思われ、難なく進む事が出来ました。
ここからは残雪で車では先に進めないので駐車場に車を停めます。
車から降りるとひんやりとした風が頬にあたります。
3月も終わりだというのにまだこの部落跡地は深い雪に閉ざされています。
平成12年5月、この場所に暮らしていた最後の住民達はこの地を後にしました。
冬場の先人たちの暮らしぶりに想いを寄せると悲哀を感じざるを得ません。
車からザックを取り出して担いでいると知らない人が話しかけて来ます。
還暦を過ぎた風貌の性格が悪そうな顔相の男です。
聞けば入漁券の提示を求める旨。
その横柄な態度にいささか腹を立てます。
登山者であることを説明しても一向に信じてもらえません。
仕方なくピッケルを取り出して見せると、ようやく釣り人でない事を信じた様子です。
彼は真砂が大日山の登山口に繋がる事も知りませんでした。
改めて大日山がいかに一般の方々に認知されていないかを知り、閉口するのでした。
気を取り直して準備を整え登山開始です。
至る所に土が見えている箇所があるのでアイゼンは装着しませんでした。
車を離れる直前、一台車がやって来ます。
降りて来た3人の男性の内の一人に声を掛けてみると今から加賀甲山を目指すとの事でした。
軽く談笑してから3人と別れて登山開始です。
真砂町~池洞新道登山口
2011年頃から使っているGPSアプリを起動させます。
これはWiFiか携帯電波圏内時に予定ルートの地図データを事前に取り込んでおけば、圏外でも位置情報をほぼ正確に把握出来るすぐれものです。
当時、有料アプリでしたが、安価でコスパが非常に良いアプリで登山時にかなり重宝しておりました。(現在は残念ながら廃アプリとなっています。)
ザラメ状の雪に覆われた登山道の下は雪解け水が流れている様で時折深く足を取られます。
登山靴にはゲイターを装着しているおかげで靴の中には雪はほとんど進入してきません。
何度か足を取られながらも順調に前へ進みます。
20分位川沿いの林道を進むと、ようやく大日山登山口駐車場に着きました。
駐車場には『つぶやき』との題目の書かれた看板が掲げられています。
薄ら汚れた白い看板に書かれた内容はというと。
真砂の住民は夏に死ぬのが本望だと。
なぜなら虫たちが大合唱をしてあの世へ送りだしてくれるから。
なるほど。やっぱり最後はにぎやかなほうがいいかもしれません。
妙に納得するのでした。
この日の登山計画は初めての本格的な残雪期の大日山ということで、大日山手前の加賀甲山(1302m)にある大日山避難小屋を目指します。
大日山山頂(1368m)は時間を見て挑戦するか決める事にしました。
使用ルートは池洞新道のピストンです。
別ルートで徳助新道があり、登山時と下山時に使い分ければ一帯の山々を縦走出来ます。
しかし残雪期なので道迷いし易く、徳助の頭からの下山は困難と思えたので徳助新道は使わないことにしました。
登山口駐車場から池洞登山口へ向かいます。アイゼンの装着も考えましたが、登山道にはまだ所々地面が顔を出しており、使えません。
雪の状態は放射冷却によってかなり固くなっていますがクラスト(溶けた雪が再凍結する事)はしていないので大丈夫そうです。
登山口駐車場を出て暫くすると左手に金属製の鳥居がみえます。
『真砂神社』跡地で現在はその鳥居だけが残されています。
真砂神社の御祭神は天照大御神で平成10年に山中温泉白山町の『白山神社』に合祀されています。
鳥居から登山道を少し進むと徳助新道の登山口があります。
ここから登ると白山の眺めが良いのでこちらから登りたいと未練がましく思うのですが、その気持ちをグッと抑えて先に進みます。
川沿いを歩いていると先行していた釣り人とすれ違います。
この辺り一帯はかつて人が住んでいた頃、禁漁区でしたが今は解除されていて自由に渓流釣りを楽しむ事が出来ます。
さらに林道を暫く歩くと池洞新道の入り口です。
(確か案内札があったはずだが…。)
雪に埋もれているのかと思い急登を登り始めます。
ここから本格的な登りになります。
池洞新道~加賀甲山上部
辺りはすっかり明るくなっています。
登山道は深い雪に覆われて見えません。
雪が無い時は斜面をつづら折りにトラバース(横切り)しながら登るのですが、この時期はゆっくりと足場を固めながら直登します。
心地よい負荷が体に掛かり、呼吸数が上がります。
気温は0℃近辺だと思われますが、汗が滝のように噴き出して来ました。
15分位登ると斜面が平坦になります。辺りは一面の杉林です。
暫く前に進むと異変に気が付きます。
先が谷と急斜面に遮られて前へ進めないのです。
どうやら登り口を間違えた様です。
今から引き返すと約1時間のロスタイムです。
iPhoneのGPSアプリを開いて現在位置を確かめます。
アプリには国土地理院の地図データが記録されています。
その地図の上には以前登った時の軌跡データも表示されているので安心です。
確認するとやはりルートを山一つ外していました。
目視で確認すると藪は深いけど行けない訳では無さそうな感じです。
暫く考えて引き返すのは時間がもったいないと判断してこのまま先に進む事にしました。
雪の状態はザラメ状で固く締まっていますが体重を片足に深く掛けるとずっぽりと雪の中に沈んでしまいます。
足が取られない様にそっと静かに雪の上を歩きます。
木の枝をかき分けて、枯れたススキの茎が折れるバリバリと乾いた音を聞きながら進みます。
つかんで放したブナの枝が頬に当たって痛いです。
暫くの悪戦苦闘の後、藪が切れる場所に出る事が出来ました。
GPSアプリで現在位置を確認すると前回に登った軌跡上に自分がいる事を確認出来ます。
ほっと安心をして再び山頂を目指します。
植林された杉林を抜けると針葉樹は無くなり広葉樹林となります。
陽の光が木々の間から差し込んで来ました。
地面は一面雪景色で何処を見てもしっかりと雪が着いています。
平たんな場所を探してアイゼンを装着します。
まだ雪質はザラメの状態ですが、表層がフィルム状に一部クラストしている所がありました。
アイゼンを装着し終わり、また登り始めます。
しばらくすると雪はかなり固くなり、もう片足を雪中深くに沈める事は滅多にありません。
フィルムクラストした雪の表面をパリパリと心地よい音を立てながら登り続けます。
木漏れ日がブナ林を斜めに遮り視界を彩ります。
陽が冷えた耳に当たるたびに暖かみを感じます。
ほっとした気分になりながら登っていると頬に冷たい何かが当たりました。
腕を見ると服には長方形の大きな氷の結晶がくっついています。
見上げると陽の光を受けてキラキラと輝く長い氷の結晶がひらりひらりと一斉に舞い落ちて来ました。
「雪?」
いや、違いました。
霧氷です。
枝に付いた霜が夜中に冷え込んで成長し、霧氷となりました。
その霧氷が陽光に暖められて溶け落ちて来たのです。
それはとてもとても幻想的で神秘的な風景でした。
僅か数分の出来事でしたが、あの奇麗さはどんなに高価な風景画でも敵う事は無いでしょう。
加賀甲山上部~大日山避難小屋
標高が1,100mを超えた頃、ブナ林は徐々に雪に埋もれて行き、視界が開けて来ました。
道迷いが心配で手に握り締めていたiPhoneでしたが、ようやくポケットにしまう事ができ、開放感に浸りながら登り続けます。
後はピークに向かって進むだけです。
サクサクと軽快な足音を立てながら登り続けると大日山避難小屋が見えて来ました。
小走りに最後まで登り切り、加賀甲山に登頂成功です。
辺りを見渡せば一面の雪模様です。
眼前の大日山が視界を少し遮っていますが白山に目をやると、手を伸ばせば届きそうなほど間近に見えます。
一通り見渡して満足して避難小屋の中に入ります。
小屋の中は6人くらいが十分に泊まる事が出来る床があります。
小屋には薪ストーブがあり、3日程度は温まるのに十分な量の薪が近くにありました。
昼食をとります。湯を沸かしてカップラーメンと弁当を食べます。
さっさとに食べ終わり休憩をします、
少し横になろうとしたら床の奥にペットボトルが置いてありました。
「いろはす」でした。
中身は全部入っているのですが、誰が置いて行ったものかは分かりません。
忘れ物かと思い、持って帰る事にしました。
部屋の隅にノートが置いてあり、登山記録帳があったので読んでみます。
見ると感動の報告ばかりで沢山の登頂の喜びが書かれています。
中にこんな感想がありました。
『〇月×日大日山に登りました。天気が良くてサイコーでした!ありがとう!お礼に「いろはす」置いていきます!』
「これはあかんやろ…。」
ただ飲料水を置いて行った所でゴミにしか見えません。
しかし、僕はその時(もしかしたら飲む人がいるのかも?)と迷いだしました。
暫く考えた末、結局元の場所へ戻してしまいました。
「ゴン。」
戸が開く音がしました。
戸を開けて入って来たのは真砂で会った3人のパーティでした。
還暦前後の年齢でした。軽く挨拶をして場所を開けました。
ここまでの登山はどんな感じだったか尋ねると。
「あなた道間違えたでしょう。てっきり慣れた人かと思ってトレース(足跡)を追いかけて来たら行き止まりじゃない。戻って登り返したんだけど一時間余計に掛かってしまいましたよ。」
怒った口調では無かったが、ちょっと残念そうな顔をしていました。
僕はとても恥ずかしい気持ちになりました。
そして3人に深く詫びました。
その後結局は笑い話になって山の話で盛り上がったのでした。
先頭を行く者 道迷いするべからず。
これはこの時学んだ教訓です。
避難小屋の扉を開けました。
大日山避難小屋~大日山山頂
扉を開けると白く眩しい光で目が眩みます。
太陽は頭上でさんぜんと輝いています。
時計を見るともう正午近くを示しています。
もったいないが後は来年のお楽しみにしてもう下山しようと思いました。
最後にもう一度大日山を眺めてこちらの甲山へと続く稜線『カタコガ原』へ目を移しました。
すると黒い点が見えます。
その黒い点はゆっくりとこちらの方に近寄って来ました。
「人だ!」
その時、僕の理性のタカがするりと音を立てて外れてしまいました。
僕は一目散にカタコガ原を大日山に向かって歩き出していました。
しばらく歩くとこちらへ向かって来る登山者と会う事が出来ました。
見た感じは30そこそこの若い男性です。
男性に問いかけます。
「どのルートから来ました?」
「徳助新道です。」
しめた!彼のトレースを追いかけたら徳助の頭から下山道を迷わずに降りる事が出来る。
僕はその時大日山を目指す事に決めました。
甲山を下りその後目指す大日山へと登り返します。
ザクザクとザラメ状になった雪を踏みしめて登ります。
体中から汗が吹き出して息が乱れます。
登りながら大日山の頂上を見ていると、白山御前峰の頭が徐々に見えて来ます。
すると疲れも吹き飛び頂上に向かって駆け登ります。
頂上に着いた時、喜びのあまりピッケルを雪面に突き立てました。
そこは360度見渡す限りの大展望です。
白山は神々しくも白く輝いていました。
ここで大日山を後にして稜線沿いの小大日山(1198m)、最後のピークである徳助の頭(1053m)へと向かいます。
時計を見ると13時15分を示していました。
大日山~徳助の頭
稜線伝いに続くこの徳助新道は雪のない季節には背丈3メートル位のブナ林に視界が遮られています。
でも今日は登山道が深い雪で覆われてしまっているので視界を遮る物は何もありません。
雄大な白山に見守られながら軽快に稜線を歩きます。
とても大げさかもしれませんが、山と一体になったような、そんな錯覚すら覚えるほど気分は高揚していました。
意気揚々と小大日山を越えて行きます。
3月も終わりに入っているので気温がかなり上がっています。
朝はパリパリにクラストしていた雪面も今ではザクザクに溶けてしまいました。
徳助の頭に来た頃には朝にあったはずのトレースが太陽の熱に暖められ、溶けて無くなってしまっています。
慌ててiPhoneのGPSアプリを開き、帰路を探そうとしました。
ここでとても深刻な計算違いに気が付きます。
太陽の光が眩しすぎて瞳孔が閉まってしまい、iPhoneのディスプレイが見えなくなっているのです。
サングラスの色は薄く、外して見ても見え方は変わりませんでした。
今思えばこれは僕の網膜色素変性症という眼病の初期症状だったのです。
夜盲が酷くて目が慣れるのが非常に遅い為だと思われます。
通常15分位目を閉じていれば目が慣れてきて、ディスプレイを確認出来るようになるはずです。
しかしこの強い日差しと雪面からの照り返しの下ではすぐにまた瞳孔が閉まってしまい、見えなくなるでしょう。
悩んだ末、以前雪の無い時期に降りた記憶を頼りにして尾根から山の斜面に向けて下山する事にしました。
肩ぐらいのブナの藪をかき分けて前へ進みました。
しばらく進むと急斜面の谷が行く手を阻んでいます。
記憶にない地形です。
これ以上前へ進む事が出来ません。
「やってしまった…。」
完全に道迷いしてしまいました。
心の中はこの先起こるかもしれない負のイメージで覆いつくされて不安に押しつぶされそうになります。
どうにか心を落ち着かせて、助かる方法を考えます。
タイムリミットは5分。時刻は14時55分でした。
方法として二通りの下山方法があります。
一つは徳助の頭まで引き返して正しいルートを探して徳助新道で下山する方法。
これは上手くいけば一時間位で下山出来ます。
しかし万一後もう一度道迷いしたら当日中の下山は難しくなります。
その場合どこかで山中一泊しなければなりません。
ツェルト(非常用テント)は持っていませんでした。
もう一方は大日山避難小屋まで登り返す方法。
これは稜線を登り返すだけですから道迷いはありません。
避難小屋の近くには携帯が繋がる所もあります。
しかし暗くなる18時過ぎまでに戻らないといけません。
夜間冷え込みが厳しい山頂付近で迷ってしまう可能性があるからです。
幸い次の日は仕事が公休日でした。
しばらくの間考えに考えましたが、その結果避難小屋に引き返す事にしました。
15時半に徳助の頭に戻りました。
徳助の頭~大日山
山々を見渡すと遥か彼方にみえる甲山のてっぺんにポツンと小さな避難小屋が見えました。
まるでそれは三角おむすびの頂点に小さな小豆が立っている様に見えました。
余りもの遠さにそのまま徳助新道を探して下山しようかと悩みます。
しかしやはり避難小屋を目指す事にしました。
日暮れまでに。
決断するまでは悩むがいい。しかし決めたらまい進するのみ。
半ば無理やり気持ちを奮い立たせます。
そして今まで通ってきた登山道を引き返しました。
徳助の頭から急いで下り小大日山へ登り返し始めた時、足がつってしまいました。
どうやら先を急ぎ過ぎたようです。
ハイドレーションシステム(バックパックのタンクから口元まで伸びたチューブで給水する装置)から水を飲み、携帯している干し梅を食べて塩分を補給します。
太ももを揉み解してまた登り始めます。
推察すると、登るペースには限界があって、それ以上ペースを上げると足がつってしまうようです。
足がつらないよう筋肉の限界ギリギリの速さで登り続けます。
もう後戻りは出来ません。
避難小屋を目指して進み続けるしか方法はないのです。
しかしまるで大きな波が来る前は引けが来るように不安という感情が顔を出してきます。
「あんた。何しとん!」
声の主は妻の声でした。
辺りを見渡しても誰もいません。
幻聴が聞こえてしまいました。
無理もありません。
前日、妻に大日山へ登るとだけ伝えてここに来てしまいました。
しかしあの真砂で会った還暦の監視員の様に、彼女は大日山がどんな山なのか全く知らないのです。
もっとちゃんと説明すれば良かった…。
後悔の念が脳裏をよぎります。
なんとか正気を取り戻し再び先を急ぎます。
小大日山に到着しました。
ここからまた下り、そして大日山へ向けて登り返します。
もう太陽の光はその照度を落し始めていて、空気はシンと冷たくなって来ました。
「絶対に生きて帰る!」
「必ず避難小屋に辿り着く!」
この頃から自分を鼓舞する言葉を自身に投げかけながら登ります。
17時を回っていたと思います。
ようやく大日山山頂に辿り着きました。
大日山山頂~大日山避難小屋
甲山の方へ目を移すとその頂上に避難小屋が見えます。
その左斜め上には太陽が紅く輝き、ゆっくりゆっくりと甲山に近づいています。
辺りは一面に紅く染まり。時折強い風切り音が耳元ををくすぐります。
僕はこの時とても孤独な気持ちになりました、
ここには僕以外誰もいないのです。
どんなに大きな声で叫ぼうがわめこうが、誰も助けに来てくれません。
そこにはただ涙が流れる程美しい景色があるだけでした。
太陽が山に近づいてきます。
そして太陽と避難小屋は横一列にならびました。
体をしっかりと避難小屋の方に合わせて進路を間違えないようにします。
標高を下げるにつれ太陽と避難小屋は加速度を上げて行き。遂に山肌に隠れて見えなくなってしまいました。
小走りで雪に覆われた山肌を下ります。
次第に辺りは薄暗くなって来ました。
急いで下りきって最後の登りに差し掛かりました。。
谷から中腹まで登ると闇がすぐそばまでで迫ってきました。
山を愛するもの決して山で死ぬべからず。
心に言い聞かせながら登ります。
早く帰って妻に謝らなければいけません。
必死で登り続けます。
山小屋が再び視界に入りました。
「よし!」
最後の力を振り絞って駆け登ります。
ギィー。
バタン。
大日山避難小屋【夕刻】
「ハァ。ハァ。ハァ―。助かった。」
避難小屋に入ると大声を張り上げました。
感情が抑えきれなくなり、涙が溢れ出てきます。
もう冷え込みの激しい山頂での夜明かしの心配はありません。
感情に浸る間もなく、ザックの中から自家発電で光る携帯ライトを取り出します。
ライトの側面に付いているハンドルを勢いよく回すと明るく点灯し始めます。
5分程ハンドルを回し続けて、ある程度蓄電された事を確かめます。
これで部屋の中はなんとか見える様になりました。
iPhoneの電池残量を確認すると20パーセントを切っていました。
念のため予備バッテリーパックは持っていましたが、圏外の山の中では電池の消耗が非常に早くて心配です。
iPhoneのGPS機能が使え無くなったら、明日下山出来るかわかりません。
妻へ連絡する為に避難小屋の外へ出る事にします。
なぜなら僕の使っているキャリアは当時避難小屋の外の僅か畳2畳分のスペースでしか電波が繋がらないからです。
小屋の扉を開けます。
一歩外へ出るとそこは漆黒の闇の中でした。
すっかり冷え切った風が時折強く吹き、肌を刺激します。
後10分遅かったらと思うと怖くなりました。
小屋から出てすぐの電波が届く所まで移動します。
圏内表示を確認して妻に電話します。
「もしもし?」
「すまん。大日山に登って途中で道に迷った。山頂の山小屋で泊まって帰るから心配は要らない。携帯のバッテリーが少ないのでこれから電源を切ります。」
「あんた何しとん?」
「もう会えんかと思ったわ。」
僕はここで不覚にも泣き出してしまいました。
ぴゅーぴゅーと風切り音が大きかったです。
「何やっとんや…。気を付けて帰って来てやー。」
「わかった。」
電話を切りました。
小屋へ戻ります。
薪ストーブに火を着けます。
新聞紙が倉庫にあったので一枚頂き、丸めて薪ストーブの中に入れます。
供えつけの薪割り用の斧で木くずを作って新聞紙の上に乗せます。
その上に細い木を並べて火を入れます。火を入れて静かにうちわで空気を送りこみ、炎を大きくします。
火が大きくなった所で大きな薪を入れてさらに空気を送り込みます。
完全に火が付いたら、薪をくべてストーブの扉を閉めます。
部屋が暖かくなって来ました。
暖かくなるとともに僕の心も落ち着きを取り戻して来ました。
大日山避難小屋【一泊】
非常食用にカロリーメイトブロックを2箱持って来ていました。
そのうち一箱の半分にあたる2本を頂く事にします。
ハイドレーションのタンクの中の水の量はかなり少なくなっていました。
節約の為、残雪を沸かして飲もうと思いました。
しかし、ふと昼間の出来事を思い出します。
「いろはすがあった!」
登山記録ノートの横にあるいろはすを取り出して、ありがたく頂く事にしました。
口に含んだみかん味のそれは甘酸っぱくてとてもおいしかったです。
僕はつい半日前までこの飲料水を身勝手に置いて行った登山者に怒っていました。
それなのに助けられている自分に、僕はただ自嘲するのでした。
「結局の所、何が正しいかなんて誰にもわからないんだな…。」
早めに就寝する事にしました。
持参したすべての防寒具をレイヤリング(重ね着)します。
ストーブに薪を追加して小屋に備え付けてある毛布を被ってさっさと眠りにつきます。
風が強くてガタガタと戸がきしんでいました。
ストーブの薪はその年の夏に避難小屋を改築した時に出た廃材を利用したものでした。
その材質は針葉樹でした。
針葉樹は火付きはよいのですが短時間で燃え尽きてしまいます。
火が消えそうになると怖くなり、何度も起きて薪をくべました。
途中用を足しに小屋の外へ出ました。
扉を開けて空を見上げると満天の星空に息をのみました。
寒空にもかかわらず暫くの間、ただ茫然と星を眺めていました。
小屋に戻り再び眠って次に起きた時は、窓から明るい日差しが差し込んでいました。
給水の為、残雪を鍋に詰め込んで湯を沸かします。
インスタントコーヒーに有るだけの砂糖を入れて飲み、カロリーメイトを二本食べました。
火の元を確かめ身支度を整えて小屋を後にしました。
大日山避難小屋~下山
1967年1月1日。
大日山登頂に挑んだ6人のパーティ『金沢かもしか山岳会』が帰らぬ人となりました。
その事故を教訓に建設された大日山避難小屋。
彼らの無念を推し量ると居たたまれなくなりました。
今生かされている自分に感謝し、そして冥福を祈りました。
気を持ち直して下山開始です。
すっかり明るくなった甲山をもとに来た方向へ下山します。
まだ複数のトレースが残されており、道迷いの心配はありませんでした。
中腹まで下山した頃、登山者と出会いました。
30代前半位の男性でやはり単独者です。
登り口で迷わなかったか確認した所、大丈夫だとのことで安心しました。
徳助新道を使う場合は道迷いしているので十分注意するように案内します。
予期せぬ一泊をした事を告げると彼はとても驚いていました。
登山者と別れ暫くすると沢の音が聞こえて来ました。
後もう少しです。
杉林を抜けて川沿いの林道に出ます。
時折足を深く雪にはまりながら登山口駐車場に着きました。
改めてあの白い看板を眺めます。
つぶやき
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
宮本の志う婆さんがその後で
「死ぐなら夏死げ アブ泣く 蚊泣く ホタル灯灯す セミお経あげる」
とつぶやいていた。
雪深い北国に住む人びとの願いは夏死ぐことであった。
この真砂も平成十年十月
神、仏と共に人びとはこの土地を、後にした。
平成十二年五月
2013年3月31日 午前10時30分。
真砂駐車場に無事到着しました。
安堵の間もなく早々に帰り支度を整えます。
急いで家路に向かいます。
5分程車を走らせると一台の車がこちらに向かって来ます。
良く見ると見覚えのある車です。
近所の友人の車デリカD5でした。
2台は道の際に車を停めました。
車から降りて来たのは友人ともう一人。
僕の妻でした。
彼女の目を見ると涙を流しきって赤く充血していました。
おわり
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